人格形成のプラトー
うまい言葉が見つからない。
精神的成長には限界がある。
若いころにロールモデルにしていた人物の年齢を遥かに超え、
一向に超えられないばかりか、到底近づけそうにないレベルで足踏みしていることに愕然とする。
若いころから人格の陶冶には関心があり、宗教団体に長く在籍していたこともある。
また、万巻の書とは言わないまでも、精神修養に結び付くような書籍もうんざりするほど読んだ。
その時は確かに感動し、人生が啓けた気もしたが、何も変わらず、何も覚えていないから不思議だ。
このようなループを何年続けていても、プラトーを超えることはできない。
50歳手前の今、今一度真剣に己の生に向き合ってみたい。
ありとあらゆることを後回しにして、己の生を臨場感をもって抱きしめてみたい。
反応について
反応について。
生きていくために、事象の様々な要素に機敏に反応し、
生存競争からの落後を回避しようとするのは人間の自然な営みだろう。
それは生物学的なプログラムから始まり、長じるにつれ心理学的営みになり、集団生活が生きる枠組みになるにつれ、社会的な要請として自明のものになるのであろうか。
そうなると反応はもはや反射と言ってもいいくらい無意識の行動となり、
自分以外の環境に対して、詰碁のようにパターン化した反応をすることになる。
強者は強者のままに、弱者は弱者のままに、ひな形の穴を掘り、せっせと決められた反応を繰り返す。
もちろん、そのような生き方に満足できるほど、人は無能ではない。
抗い、あがき、自身を叱咤激励して、お仕着せの振る舞いを何とか変えようと悪戦苦闘するのだ。
抗えば抗うほど、無力を感じる時もあるのであるが、これも一つの反応であるのであれば、
この無力感こそまずは乗り越えるべきあい路であるはずだ。
階層を突破せよ。思考自体が、制約を課せられているのだから、
そのようなものを指揮官に仰ぐべきではない。
思考こそ、反応を生む源泉の一つであることを知れ。
再開
書くという営みから少し距離を置いていた。
書くという行為がしんどすぎたのかもしれない。
しかし、しんどくない生き方はそれはそれでなんともつまらないものだ。
急かされるように、タッチボードに指を起こした。
あー、どうだろう。
それだけで帰ってきたようなきがするよ。
少し正直にもなれそうだ。
ソフィーの選択
こういう映画を見ると、宗教組織というのは暇人の互助会としか思えないな。
好きな時に食べ、好きな時に眠り、お金さえあれば性欲も満たすことのできる異常な世界で生きている私たちの世界に、もし、出来合いの救いがあるとしたら、それは汚れた罪悪感を忘れさせる精神安定剤のようなものでしかないのだろう。
お仕着せの超自我を破壊せよ
動物に超自我はない。彼らの意識は、遺伝的指令とある種の自我によって構成されている。とすれば、超自我こそ人と動物を隔てるものであり、人が人として生きるためのツールである。だからこそ人は、生きるために思想を求め、宗教を必要とするのだろう。突き上げる遺伝的指令に対抗し、翻弄される自我を強化するために。
しかし、超自我は、自我を抑圧するもの、ありのままの自分を委縮させるものとして、一般的には認知されているようだ。それは我々の超自我の多くが、親や学校教育のお仕着せから脱着できないまま、生涯を貫き通すからなのではないかと思う。思想から思想へ、宗教指導者から宗教指導者へ移り変わるのは、お仕着せの見栄えが変わるだけに過ぎない。
まず、自分がいかなる超自我を負わされ、欲動もろとも自我を押さえつけられているか、確認すべきである。そしてお仕着せの超自我を徹底的に破壊する必要がある。超自我を無意識の領域から意識の領域へ、脊髄反射から呼吸の領域へ転換していく必要がある。
定例親子キャンプ 平成26年4月
キャンプは、実体験の中で必要なものを少しずつ揃えてくのも楽しみの一つ。
次回
までに揃えておきたい道具。
炭用のトング
飲料水用のタンク
テーブルセット
タープ用のポール
ランタン用のポール
初心者であることが、すぐにわかるリストだ。